清浄心院では御本尊である廿日大師のご開帳に合わせて、高野山大学名誉教授の山陰加春夫(やまかげ かずお)先生をお招きし、2022年4月18日(月) ―『鎌倉殿の13人』時代の高野山―と題した講演会を開催しました。講演会では、現在放映中のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」にちなんで、鎌倉時代前期の高野山がどのような存在であり、またどのような役割を担っていたかについてお話しいただきました。講演会は一「平家物語と高野山」、二 「行勝上人と貞暁法印」、三「鑁阿上人の勧進活動」、四「西行法師の見た内乱」という4つのパートにわけて、文学作品や高野山における重要な人物を通して当時の高野山の様子をご講義いただきました。本記事ではその内容を要約してご紹介します。
山陰加春夫(やまかげ かずお)
1951年和歌山県生まれ。高野山大学大学院博士課程単位取得退学。博士(文学・大阪市立大学)。高野山大学教員、高野山霊宝館副館長を経て、現在は高野山大学名誉教授。専門は日本中世史。
講義の冒頭に、鎌倉時代前期の高野山の様子をご解説いただきました。
山陰 今の高野山は山々と、それらに囲まれた盆地状の平坦地すべてが金剛峯寺の境内地になっております。清浄心院も金剛峯寺を構成する有力な塔頭の一つという位置付けでございます。しかし鎌倉時代の前期〜後期にかけての金剛峯寺は今の壇上伽藍とその周囲だけがエリアで、現在の総本山金剛峯寺の寺域には覚鑁上人(かくばんしょうにん)が創建した大伝法院(*1)という大きなお寺が建っていました。
そして、承久の乱(1221年)の後に、小田原谷の一番南に鎌倉幕府の菩提寺である金剛三昧院(*2)が誕生し、金剛峯寺、大伝法院とともに3つの大きな寺院が競い合う、という姿が鎌倉時代前期の高野山の様子でございました。またそのほかにも、小さな庵やお寺などが多くあり、非常に多種多様な聖たちがそこかしこに住んでいました。つまり、当時の高野山は極めて多様性に満ちた山だったと言えます。
(*1 )大伝法院・・・長承元年(1132)に覚鑁上人(1095-1143)が、現在の総本山金剛峯寺の東半分の寺域に鳥羽上皇の御願寺として創建。室町時代以降には根来寺と汎称される寺院。
(*2)金剛三昧院・・・貞応2年(1223)に北条政子が三代将軍(源頼朝・頼家・実朝)の菩提を弔うために、安達景盛を奉行として小田原谷の最南部に創建した密・禅・律三宗兼学の寺院。
高野山は軍記物語『平家物語』の中にいくつもの印象的なエピソードが見られます。横笛(平清盛の娘建礼門院に仕える雑仕女)との恋が叶わず出家し、清浄心院谷に居を構えて修行していた滝口入道(平重盛の家臣斉藤時頼。恋慕を断ち切るために出家し、のちに高野聖となる)も、『平家物語』に登場します。
山陰 1184年2月源平合戦で一の谷の戦いがございました。平氏はかなり頑張ったんですが、源氏の急襲に遭い総崩れとなって屋島に退却します。このとき平氏のエースである平重衡が生け捕りにされ16才の平敦盛も殺されるなど、たくさんの武将が命を落としました。残った平氏は屋島に集結するのですが、平氏のシンボルのような存在である5代目の平維盛は戦線を離脱して紀淡海峡を渡り、山づたいに高野山の清浄心院谷に登って来たんです。
清浄心院は平宗盛が再興したお寺で、いわばこのエリア一帯は高野山における平氏一門の拠点だったわけでございます。当時、滝口入道が現在の清浄心院の護摩堂があるあたりに住んでいたのですが、そこで山を登ってきた維盛とばったり出くわします。
そして、滝口入道の案内で維盛は高野山の堂塔伽藍を巡礼し、その後山を伝って熊野に行き、入水自殺を遂げるという悲劇がございます。平家物語では、滝口入道がなぜ清浄心院谷にいるのかということが挿話として語られます。清浄心院は非常に印象的な場面で登場するわけでございます(『平家物語第十巻』「横笛」「高野巻」「維盛出家」)。
高野山が登場するこの挿話群は13世紀以降、入定信仰と高野山信仰を前提として、あるいはこうした信仰のさらなる流布を企図して書かれたと言えます。『延慶本平家物語』第3本「白河院、祈親持経(聖人)の再誕の事」には、入定信仰は、弘法大師が高野山におられて、人々の現世と来世の幸福を叶えてくださるというもの。高野山信仰については、一度でも高野山にいらした方や一晩でもこの山に泊まったことがある方は、心身ともに清浄な姿になり、生まれつき自分に備わっている仏性が体に満ち満ちてきて、金剛界37尊の尊位につながることができる、つまり仏になることができるんだということが書かれています。高野山で静かに一泊することにも重要な意味があると教えてくれているのは非常に興味深いことです。
次に清浄心院谷とは反対側の高野山の様子について、行勝上人と貞暁法印という二人の高野聖の視点から講義いただきました。
山陰 南海りんかんバス2つ目の停留所「一心口」辺り一帯は、かつては一心院という大寺院の寺域でした。平安時代後期の不動明王の霊像と運慶・快慶による八大童子像が本堂の中に安置されているという非常に贅を尽くしたお寺が存在していました。この初代院主行勝上人は穀断聖人(修行・祈願のために穀類を食べない高僧)として非常に有名な聖で、京都では生き仏といわれるほど信者が多い方でした。その様子が九条兼実の日記『玉葉』に書かれています。
さて、この一心院の二代目の院主は源頼朝の実子である貞暁法印でございます。鎌倉時代は頼朝に限らず複数の女性とお付き合いすることがよくありましたが、やがて頼朝と大進局(伊達朝宗の娘)との間に子供が生まれたわけです。しかし、見つかると嫉妬によって殺されてしまうと恐れて、鎌倉殿の13人たちは京都に逃がそうと考えたわけです。頼朝の妹が京都の一条家に嫁いでいましたので、妹を頼りに京都に逃しました。京都には真言宗・御室派の仁和寺がありますが、仁和寺のお坊さんにすることで、なんとか生きながらえさそうと考えたわけです。しかし、それでも命が危くなり、今度は高野山の行勝上人の元へ逃がそうと考え、貞暁は一心院に上ってきました。
ところが、『高野伽藍院跡考』(懐英著)の「安養院」の項に「『平政子如実尼公』、承元二戌申年十月、熊野に詣ずるの因みに、天野に来詣す。貞暁上人を呼び下し、対談して曰く『汝に武門の望みあらば、吾それ、これを謀个(ぼうか。仲介)せん』と。」とあります。
続いて、「高野山にとって非常に重要な人物」と山陰先生がおっしゃる鑁阿上人(ばんなしょうにん)についてご講義いただきました。
山陰 一般的にはあまり知られることはないのですが、高野山を代表する聖のお一人です。目が不自由な上人で常に弟子に手を引かれて活動されていたようです。源平の合戦が終わった後、白河法皇の元に押しかけて「高野山から見ていると、死んだ人は成仏できず、生きている人も毎日の不安に怯えてみんなが不幸せに見える。みなの苦しみを見ると魂が焦げるような気持ちになる。そこで私は考えました。高野山には平忠盛、清盛が再建した大塔という素晴らしい塔があるので、そこで昼夜間断なく生きる人々の安心と亡くなった人々の成仏のため、弥勒菩薩がこの世に現れる56億7千万年後まで祈祷をしてはどうか」と後白河法皇に提案しました。と、たいそう壮大なことです。
しかし、そのためには費用がかかりますので、これをまかなえる大きな土地を寄進してくださいとお願いしたんですね。後白河法皇はこれに感動して、大田の荘(広島県・世羅郡世羅町)を寄進しました。しかし、大田の荘は源平合戦の間に疲弊してしまって、とても米を送る余力はなかった。そこを鑁阿上人は一軒ずつ訪ねて説得して回ったそうです。そして、数年経ってから、広島から高野山に千石を超えるお米が届くようになりました。何とこの寄進は戦国時代になり大田の荘がなくなってしまうまで続いたといわれます。鑁阿上人はこの寄進のシステムが整った時に金剛峯寺に手紙を書き「自分が持つ権利をすべて金剛峯寺に捧げますから、平和の祈りを続けてください」と言って、無一物で死んでいったという、すごい上人です。
高野山は空海以来、「怨親平等」観念(敵も味方も平等に愛憐しなければいけないという考え)が相承されてきた山で、鑁阿上人はこのように怨親平等観念を内在化し、私心を捨てて、利他業(自分を犠牲にしてでも他人の福利を図る修行)を実践する僧侶でした。
続いて、高野山に30年住んだ僧侶であり歌人の西行法師(紀の川市・打田地区出身)について解説いただきました。
山陰 西行法師は治承・寿永の内乱を見て『聞書集』に「こは何事のあらそいぞや(これは何のための争いか)」と憤りを込めて書いています。そして「木曽と申す武者死にはべりにけりな(木曽のなにがしという武者が死にましたそうな」と非常に突き放して書いています。
西行は一級の歌人として知られていますが、非常に謎の多い人物です。打田の佐藤氏の御曹司で早くから都に上がり、蹴鞠の名手だったとも言われていますが、北面の武士となりハンサムで体格も良いのに一体何の不満があったのか23歳で出家し、やがて高野山に上ってきました。そして現在の伽藍にある大会堂を別の場所から現在の場所に移築するのに尽力しました。その大会堂には西行ゆかりの場所なので西行桜があります。元は武士でしたが仏道に入ってからは月や花を歌に詠み、一歩引いた非常に冷徹な目で源平の合戦を見ていたということができます。
さて、1984年に歌人の上田三四二さんが書かれた『この世、この生』(新潮社)という本の中に「地上一寸ということ」という文章があります。その一部を読みます。
「こはなにごとのあらそひぞや」と叱咤する。(中略)ここから、西行が源平の争乱という血なまぐさい時代のなかに行じた花月への詠歌懸命の道が、殺なく争なき人間の世を願ってのことだった、と知られる。(中略)彼の歌はこう言っている。「一寸浮きたまえ。そのためにこの世に花があり、月がある。そして、人間がみな一寸浮きさえすれば、殺なく争なき現世浄土が出現するのだ」と。
この文章が書かれたのは40年ほど前のことですが、今も同じ状況だと思います。テレビをつけるとウクライナの大変な状況が映し出されます。また日本でもコロナ禍がなかなか収束しません。西行は、月や花といった美しいものに心を集中させて、心がふっと浮き上がるようにしなさい。みんながその気になれば、戦争とか争いとかくだらんものをしないようになるんだと、歌い続けていたのだと歌人の上田三四二さんは仰ってます。
高野山は1200年間、ずっと生き残ってきたわけです。その一番の秘けつは争わないこと。「怨親平等」ということで、敵も味方も同じ仏性を持つ人間としてそれぞれを大事にしてきたから続いてきたんだと思います。まさしく木下所長が言われたように、人々が幸せになりますように、また亡くなった人も成仏できますようにと毎日祈る積み重ねを1200年続けている。その大先達が弘法大師で、今も奥之院で1日2食でずっと座って御修行をなさっているんです。
普通は自分が仏になるために修行するわけですが、お大師様がなさっているのは菩薩行です。自分が修行して得る功徳を、人が幸せになるためにお参りされる方にふり向けていく。それを1200年間続けられているわけですが、弘法大師はいつまでそのお祈りをするかと言うと、未来仏である弥勒菩薩が現れるまでの56億7000万年の期間限定で頑張っておられるわけです(笑)。高野山は弥勒菩薩が出てこられるまで存在していなかったら困るわけですから、一生とかそんなスパンではなくて、56億7000万年続く前提で存在しているんですね。つまり、高野山は自分の名を立ててということを考えるのではなくて、みんなの心が安らぐことを少しでもしよう。そういうお山だと思います。
(講演終了)
現在とは異なる高野山の様子が目に浮かぶように、生き生きと語られる講演会の様子いかがでしたか。その時々の政権と一線を画し、現生と来世の幸せを一心に祈り続けたからこそ高野山が1200年にわたって続いてきた、というお話には今日の私たちも大いに学ぶところがあるように思われました。参加者もそれぞれ深くうなずきながら、熱心に山陰先生のお話に聞き入っていました。山陰先生曰く、鎌倉時代の重要人物はまだまだご紹介したい人がいますとのこと。次回の講演会を心待ちにしたいと思います。
文・写真/ヘメンディンガー・綾