大門から奥之院へ 町石と塔頭寺院を辿るツアー(11月開催)ご報告
2022年11月26日〜27日、清浄心院・高野山文化歴史研究所主導で再び所長・木下浩良先生とともにめぐるツアーが開催されました。今回のツアーは大門から奥之院へ向けてスタートし、町石と塔頭寺院を辿りながら、弘法大師空海がなぜ高野山を開いたのかに思いを巡らせる旅となりました。
協力/南海国際旅行
【1日目】
12:40 高野山駅 路線バスで大門へ
(大門からの眺めとそこに感じる空海の思いについてのお話、西南院の歴史案内&寺カフェ)
14:45 金剛三昧院で国宝・多宝塔特別拝観と寺宝展見学
16:15 宿坊・清浄心院に到着、寺宝重要文化財など寺内見学
17:30 夕食(精進料理)
19:00 木下先生のお話「空海さんはなぜ高野山を開いたのか?」
22:00 就寝
【2日目】
6:30 朝の勤行
7:30 朝食(精進料理)
9:00 宿坊から徒歩で移動。奥之院に到着
10:30 生身供を見学
11:44 一の橋天風にて昼食
13:30 清浄心院にて護摩祈祷見学
14:40 路線バスで高野山駅へ
大門から空海は何を思ったか
高野山金剛峯寺にある根本大塔を起点に、九度山町にある慈尊院まで続く町石道。その間には1町(109メートル)ごとに道標の町石が立っています。慈尊院の方から山道を登り、最後の急な坂道を上がると、高さ25.1メートルの大門が目の前に現れます。山内で最西端に位置するこの大門からは、晴れていればはるか淡路島や瀬戸内海が見渡せます。讃岐出身の弘法大師空海は、この場所から故郷を想ったのではないか、と木下先生は仰います。
さてこの大門は平安時代末期に現在のような楼門建築となり、何度か焼失を経た後、1705年に再建されました。門の両脇には聯(れん)が掛かっており、「日々の影向(ようごう)を闕(かか)さずして、処々の遺跡を檢知す」と書かれています。「これは空海さんの言葉として伝えられています。影向とは、弘法大師空海さんのこと。空海さんは奥之院に入定されておられますが、そこにじっとしていないで絶えず日本中をぐるぐる回っておられる。つまり我々のすぐ隣にいらっしゃるということです。このような信仰が平安後期にはできていました」と木下先生は解説します。
弘法大師に救いを求めてやって来る人々も多く、門から内側にはそこで亡くなられた方々の墓所があり、その後江戸時代には30ほどの小さな庵が立ち並んでいたそうです。
現在とは全く風貌が異なるかつての様子を想像しながら、次に西南院を訪れました。西南院は金剛峯寺からみて西南に位置し、裏鬼門にあたるお寺です。昭和に活躍した重森美鈴による作庭で、庭には徳川家康が寄進した経蔵が建っています。
続いて訪れたのは金剛三昧院。北条政子が夫・源頼朝の逝去に伴い1211年に創建したお寺として知られています。金剛三昧院は当時、「禅定院」と称し臨済宗のお寺として存在していました。『高野山山水屏風』によると、かつては広大な敷地に2つの塔と大仏殿などがあったことがわかりますが、火事によって焼失しています。しかし1223年に建てられた多宝塔(国宝)は火災を免れ、当時の様子を伝える建物として現存しています。
「現在高野山は真言宗の総本山となっていますが、室町時代は禅宗のお寺や組織に属さないお寺や聖が多くいました。金剛三昧院も禅宗から、やがて真言宗に変化したお寺になります」と木下先生は解説しました。開山以来、約1200年の歴史を有する高野山は、真言宗だけではなく、信仰もさまざまあったことが窺えます。
中世・近世の高野山を知る
続いて宿坊・清浄心院に向かいました。訪れた私たちを出迎えてくれたのは、『平家物語』にも登場する滝口入道と、横笛の悲恋を描いた一対の美しい屏風でした。
「清浄心院は平宗盛によって再建されたお寺ですから、おそらく平家のお寺であったと考えます。またその後は常陸国の大名佐竹氏や上杉謙信らが檀家でした」と木下先生は解説します。その後、木下先生の案内によりご本尊の二十日大師や運慶作の阿弥陀如来立像を見学。そして夕食は高野山麓の野菜や味噌を使った精進料理をいただきました。
食後は翌日訪れる奥之院に立つ石塔の意味について、木下先生によるお話がありました。
空海が今も瞑想を続けるという奥之院には20万基を超える戦国時代の大名や武将の供養塔が立ち並びます。これらの供養塔は墓であるものの、空海とともに、56億7千万年後に下生(この世に顕れる)するという弥勒菩薩を待っている。そして空海は、弥勒菩薩の言葉をあまねく人々に「通訳」するためにその出現を待っているのだ、と木下先生は解説します。
中でも興味深いのは、武田信玄や上杉謙信、高野攻めを行った織田信長や明智光秀など、敵対する者同士の供養塔が近い敷地に立っていること。これは「怨親平等」、つまり怨(敵)親(味方)も平等であるという空海の教えを目に見える形で表していると言えます。「空海さんは、私たち一人ひとりの心の中に大日如来がいらっしゃるよと仰っています。一人ずつお顔も違いますし、いろんな性格や考え方がいらっしゃいます。そのみんなが必要で、そのためにはみんなが平等なんだよ、と仰っている。そして私たちの願いやさまざまな想いを一身に受けて入定されたのではないか、と私は考えています。」
2日目はいよいよ奥之院へ
翌朝6時半から朝の勤行に参加し、朝食を済ませて清浄心院を出発。2日目のツアーがスタートしました。いよいよ弘法大師空海がご入定されている奥之院と御廟(ごびょう)に向かいます。
奥之院には一の橋、中の橋、御廟橋と三つの橋があり、徐々に弘法大師空海がおられる御廟に近づいて行きます。藤原道長が参詣する際に初めて仮設の橋が架けられましたが、その前は小川を通り足を濡らして参詣する、いわゆる禊(みそぎ)が行われていたのではないか、と木下先生は解説しました。
参詣道の両脇に整然と立つ大きな石塔は、下から順に、「地・水・火・風・空」の順で構成されています。一番古いものは12世紀のものですが、それ以前は木製で、長い柱の上が五輪塔になった供養塔でした。現存する石の五輪塔が細長い形状をしているのは、木製の初期の卒塔婆の名残だ、と木下先生は解説します。また石塔の石はそれぞれ中は空洞になっており、中に木の棒を通して町石道を運んできたと考えられています。大きな石では、なんと72人もの人々が担いだ絵図が残されています。
石塔はいわゆる「お墓」ですが、中には生前に供養塔を立てる人もいました。石田三成です。「秀吉の天下統一を目前にした石田三成は、三十歳にして石塔を建てました。逆修(ぎゃくしゅう)という生前葬です。三成の真面目な人柄が窺えるようです」と木下先生は仰います。
苔むして荘厳に満ちた名だたる武士や大名の石塔の足元で、手で持てるほどの小さな石塔も多数発掘されています。これらは室町時代の庶民らの供養塔で一石五輪塔と呼ばれるもの。
絶えることなく続く祈り
供養塔が林立する参詣道を抜け、たどり着いたのは御供所(ごくしょ)です。ここで朝の6時と10時半の2回、御廟にいらっしゃる空海にお食事をお供えする「生身供(しょうじんぐ)」という儀式の一端を見学しました。834年に空海が入定されて以来、欠かすことなく続けられてきた儀式で、白木の唐櫃(からびつ)に入ったお食事を御供所から灯籠堂まで運びます。「お食事だけではなく、夏には団扇が添えられ、冬場は手焙りが添られます。まさに空海さんがいらっしゃる、と考えるからこそです」と木下先生。食事を運ぶ僧侶に続き私たちも灯籠堂に向かいました。「灯籠堂の御廟には穴があいていて、そこから空海さんの魂が出たり入ったりなさっているそうです」と木下先生。
昼食は一の橋天風にて地鶏鍋御膳をいただき、再び清浄心院に戻って鳳凰奏殿で護摩祈祷に参加しました。般若心経、そして弁財天や不動明王の真言がお堂に響き渡り、その中央で護摩の炎がゆらめいていました。祈願文を記入した塔婆を炎に一人ずつ投げ入れ、私たちはそれぞれの成就を祈りました。
木下浩良
清浄心院・高野山文化歴史研究所 所長
元高野山大学総合学術機構 課長
NHK番組ブラタモリで高野山の案内役を務め、高野山の歴史にまつわる著書を多数出版。近著『未来をひらく!空海さんの教え』(エフジー武蔵)。
最近は新しい宿坊も増えましたが、清浄心院の宿坊は江戸時代に僧侶たちが寝泊まりしていた「会下(えか)」という建築様式をそのままに活かした宿坊となっています。つまり江戸時代の伝統が、ここに生きているということです。内藤湖南をはじめ、著名人も宿泊したことのある由緒ある宿坊です。ぜひお泊まりいただけたらと思います。
文・写真/ヘメンディンガー・綾